私なりの発達障害の捉え方。

50歳で、第3のライフステージで保育士デビューしたねずママです。

昨年保育士試験に合格し、この春から私立の保育園で働き始めました。

 

今朝、Voicyの虹色の朝陽さんのトークを聴きながら考えたことを書き留めます。

 

私も自閉スペクトラム症と不注意欠陥型の息子2人を育てる母親です。

昨今の発達障害の扱われ方については、勉強すればするほど、そして息子たちを見れば見るほど分からなくなっているのが本音です。

 

なぜなら、息子たちは診断を受けているけれど、障がい者手帳というものもなく、いわゆる普通の公立中学と高校へ学校へ毎日行き、友達はほとんどいないけれど、兄弟仲良く遊んで穏やかに暮らしています。

 

一括りに発達障害と言っても、うちのようなケースもあるし、介助がなければ生活が成り立たない人もいます。

だから朝陽さんの言うように、「発達障害は個性」というのはたしかにモヤモヤします。

 

約10年発達障害を勉強してきた私の今の考えです。

一般社会は例えるなら高速道路なんじゃないかって思うのです。

舗装された信号のない決められた道すじをみんながガンガン同じ方向に走っていて、ゆっくり自由に走ることは許されません。

時代と共に高速道路がどんどん増え、でも速すぎて恐怖を感じて乗れない人や、乗りたくない人が世の中にはいるということ。

 

発達に凸凹のある子は、まさにそれ。

まっすぐな道じゃなくて、脇道や凸凹の山道を、あくまで「自分のペースで」自由に走りたいんです。

たまには自由に止まりたい。

 

本来、高速道路はみんなが乗らなくてもいいはずです。

 

しかし、特に学校では全員に無理矢理乗せようとするから問題が起きるんです。

 

乗れない人、乗りたくない人を認めないから「障害」と名づけて管理できない言い訳にするんじゃないでしょうか。

 

学校が高速道路のようにルールを決めて運営するのはよいとして、もっと自由を認めるべきじゃないでしょうか。

違うスピードや違う走り方の子たちを一緒の道路で走らせるのではなく、側道や休憩所を作ったり、ゴールへの到着の方法やタイミングが選べるようにしたらいい。

そうすれば問題が起きる子は減り、いずれ発達障害なんて言葉もなくなるかもしれません。

 

学校的集団生活は、下手をしたら0歳の保育園から大学まで20年近くあります。

こんなに長い期間「学校的価値観」という名の高速道路に乗せられるから、卒業して社会に出てもその価値観が染み付いて、息苦しい人や息苦しくさせる人が増えているんじゃないかと思います。

 

私はあえて、学校自体が世の中の変化についていけていない、つまり「学校障害」と言いたい。

文科省の偉い人や学校にも、自分達が「障害」と名づけられて差別され、一方では「まぁ、個性だから」と諦められることの辛さやもどかしさを少しでも感じてみればいいと思うのです。

 

これだけ社会が寛容を認めるようになってきたのだから。

 

朗らかで伸びやかな毎日を♪